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活動の経過

第25次東京集中行動:鹿島本社・国会・高裁行動  2009年4月14日(金)
大型宣伝カーに7名が乗り込んで、東京へと向かった。群馬を出るときは小雨模様だったが、東京に着くとすっかり雨はあがっていた。鹿島本社前に11時40分に到着。予定より、少々早いので、近隣で宣伝行動部隊と、豊川稲荷神社で調整休憩組に別れて行動。
 東京「支える会」より3名(大谷事務局長・金子事務局員・岩佐運営委員)の強力な援軍、群馬から中島幹事が現地合流し、総勢11名。12時より街頭宣伝行動を開始し。横断幕を掲げてのスタンディングを約1時間してから、国会へと向かった。全議員要請行動は、すでに終了しているので今回からは、政党要人要請行動を重点にして、小沢氏など8名に要請。その間、宣伝カーは、東京高裁・霞が関近辺、ハザマ本社付近を「早期解決」の訴えをしながら走った。群馬に帰着し、宣伝カー看板交換・掃除終了、時計は午後7時を指していた。


第57回 中国人強制連行受難者慰霊祭 2009年4月12日(日)
群馬県太田市藪塚の長岡(ちょうこう)寺(じ)で恒例の慰霊祭が、日中友好群馬県連合会の主催により開かれました。中国大使代理と太田市長代理が参列し、歴史的経過と早期解決を願う挨拶をのべました。住職の読経と参列者焼香の後、本堂前では、日中友好協会前橋支部のニ胡グループの演奏があり、そのあと、庫裡では、学習・交流会が持たれました。強制連行弁護団・斎藤弁護士から、強制連行裁判群馬訴訟の現状説明が、支援する県民の会からは、「5月12日(火)第4回口頭弁論」傍聴支援の訴えなどがありました。学習・交流会には、地元の方々も参加し、檀家役員からの御挨拶や住職からの感銘深い「お話し」もありました。
長岡時住職:お話しの要旨「慰霊碑が少し痛んできました。物は少しずつ壊れます。心あるものは、心があればなくならないのです。異国から来て、この地で命を落とした人たちに、先々代がどういう気持ちで手を合わせたか、形に合わせるのではなく、地域の方々と共に、心を伝えてきました。 命を落とされた方々を放っておくことはできないという心と心がつながっているから、行事が続いているのです」


中国大使館へ要請行動 2009年3月26日(木)
群馬訴訟支援する県民の会・幹事会と弁護団からは、廣田・島田・康健弁護士の3名が加わり、総勢10名で、中国大使館を訪問しました。大使館側からは、張参事官他1名が対応しました。
会から、裁判支援活動の説明を、弁護団からは、強制連行の裁判上の到達点や問題点などが出されました。1時間ほど意見交流をしたあと、場所を移して、昼食会に移りました。そこでは、かなり自由闊達に、なごやかな雰囲気の中で、両国の歴史や文化についても、意見交流しました。


東京高裁群馬訴訟第3回口頭弁論 2009年2月26日(木
 群馬県最北の市・沼田始発の大型バスは、総勢48名を乗せて、午前12時40分に鹿島建設本社前に到着、小雨交じりの中を、各種横断幕を掲げての街頭宣伝行動とシュプレヒコールを実施しました。そのあと、東京高裁前に移動し、大横幕を掲げてスタンディング行動を展開しました。今回も、東京支える会々員の支援を得て、群馬の会員は、おおいに勇気づけられました。
傍聴券は抽選の運びとなり、今回も傍聴席は満席となりました。法廷では、国家無答責と時効・除斥の問題について、意見陳述がなされました。

2005年08月14日
群馬
 8月17日、藪塚事件の原告張智有さんと原告寿さんが前橋地裁に出廷。10月5日、月夜野事件の張文珍さんほか1名が出廷。ここでの原告尋問が終わると、当時、強制労働現場を目撃した日本人の証人尋問ですが、これは現在、裁判所に申請中。そしてやがて結審で原告来日、判決でも同様。というわけで今年から来年にかけて原告来日のラッシュとなります。この経済支援の拡充が「県民の会」にとって目下急務です。カンパ活動を開始しました。去る5月24日は東京での政府・企業交渉に、会より菊地定則代表始め4人が参加。だが、「群馬訴訟」の被告でもある鹿島本社は面会を拒否。当日は右翼の宣伝カーもやってきました。7月1日・12日は県内の「県民の会」役員が前橋市内の団体・労組をまわり裁判支援要請。鹿島の群馬支店にも立ち寄り、事件現場の県にある支店として本店に早期解決を具申することを要請しました。7月24日には「県民の会」第4回総会を開きました。(群馬支部・山田和夫)

2002年06月10日
【群馬訴訟を支援する「県民の会」結成】2002年6月10日
 五月二十六日、伊勢崎市文化会館で「中国人強制連行薮塚・月夜野事件群馬訴訟を支援する県民の会」結成集会が行われ、翌二十七日、弁護団と会の新役員が前橋地裁に出向き、訴状を提出、いよいよ全国八番目の「群馬訴訟」が始まりました。原告は遺族を含め三十一人。集会当日は、激励にかけつけた劉連仁事件の遺族原告劉煥新さんを交えての記者会見。三十分の予定が一時間に延びるほどの、各社記者の熱心な質問が続き、この訴訟に対するマスコミの関心の深さに驚かされました。各紙とも二十六、二十七日の両日にわたり支援県民の会結成と訴状提出を報道し、NHKでは正午のニュースで地下工場跡を映像で紹介しながら報道しました。集会参加者は弁護士十三人を含め五十七人。まず劉煥新さんの激励「日本の過ちを認める判決は、日中両国の今後の平和、世界の平和に貢献」は集会を大きく盛り上げ、この訴訟は「過去に目を見ひらき、戦争の罪業を心に刻み、不動の平和をきづいていく」運動であり、将来的には、やがて出来るであろう、そして出来ねばならない中国の支援組織とも交流すること、原告、弁護士、支援者は三輪車の三輪であることを確認し、五百円のカンパを二千人の県民に訴える「百万円支援募金」に取り組むことを決めました。会は個人加盟の会員(ボランティア)を主軸とし、団体には協賛を求めていきます。
 なお従来の「支える会」の機関紙「すおぺい群馬」は同会のニュースレターとして継承され、インターネットでも全国に送信される計画です。(YK)

※薮塚事件(鹿島組薮塚事業所)
 一九四五年四月末、二百八十人が長野県木曽谷から転送され、中島飛行機の地下工場築造に使役され、終戦までの三ヶ月半で五十人が死亡するという惨事が起きました。なお薮塚に来たとき、すでに失明者四十八人をふくむ百八十一人が病人という悲惨な状況でした。原告は生存者七人ほか遺族です。
 
※月夜野事件(間組利根川・後閑事業所)
 一九四四年四月〜五月、中国より六百十二人が連行され、利根郡岩本発電所の導水トンネル掘り、後閑の中島飛行機地下工場築造に使役され、五十九人が死亡しました。全員慢性飢餓で「幽霊のようにふらふらしていた」という村人の目撃もあります。原告は生存者十一人ほか遺族です。この事件は四年前、李万忠氏らによって東京地裁にも提訴されています。

2000年10月10日
群馬の近況(2000/10/10)
 九月二日・三日、群馬県月夜野町猿ヶ京で「支える会」合宿が行われました。三日の午後は、月夜野町に残る中国人強制連行事件の現場を訪ねました。群馬からは四名が出席。同町如意寺にある連行中国人殉難碑と強制労働跡地(地下工場築造)に参加者有志を地元在住の得能昭治さん(日中友好協会利根沼田支部長・支える会会員)に案内していただきました。お寺には檀徒の過去帳が安置されているものですが、如意寺の過去帳には、中国人殉難者五十三名の氏名が檀徒の氏名にまざって記載されています。
 あの戦争中、軍部や企業が「捕虜」と称し、村人にもそう呼ばせていた連行中国人が死亡したとき、如意寺の先々代和尚さんは檀徒とまったく同じに手厚く葬り、過去帳にも中国名を記載したのでした。
 ある日、連行中国人に死者が出て、寺で簡易ながら葬儀をしたところ、翌日特高(特別高等警察)がやってきて「敵国人を弔うとは何事か。教育上もよろしくない」と警告されたそうです。一億が総オウムになった、あの狂気の時代に、人間の、そして宗教者としての誇りを失わなかった人たちが上州の山の里にもいたのですね。
 群馬の会員、六名増えてただいま八十六名。目標は百名です。第二回支部総会は十月二十九日に行われます。

2000年08月10日
群馬の近況(2000/8/10)
 五月二十二日、群馬県月夜野町にある、強制連行中国人殉難墓に三人の来日中国人が焼香しました。前々日より東京でひらかれた日中友好協会第四十九回全国大会に出席した、中国国際交流協会の王金聖さんと文徳盛さん、中日友好協会の許金平さんでした。出迎えたのは「支える会」に団体加盟している日中友好協会群馬県連の人たちでした。焼香のあと殉難者五十九名の過去帳が保存されている如意寺で懇談をし、強制労働がおこなわれた地下工場建造跡地に行きました。現在訴訟中の李万忠さんたちもここで苦役を強いられたのでした。真っ暗なトンネルの中に一行は入っていきました。湿った、まわりの土、岩の奥から殉難者の慟哭が聞えてくるようです。三人の墓参者たちは、これからの中国を背負って立っていく人たちです。案内するわれわれのほとんどは「支える会」の会員。三人の中国人はこの無残な事件を、そして訴訟をどう感じたでしょうか。

2000年06月10日
群馬の近況(2000/6/10)
 戦争末期、群馬には八百九十二人の中国人が連行され、地下工場のためのトンネル掘りに酷使され、二カ所で計百九人が死亡しました。この中でも悲惨をきわめたのは薮塚事件です。終戦三カ月半前に二百八十人が長野の木曽谷より連行されてきましたがこのうち両眼失明者が四十八人、片目失明者二十二人、トラホーム疾患者三十七人、夜盲症疾患者十九人、肺腸疾患者五十五人と大半は障害者ないしは病人でした。この人たちを日本政府と企業(鹿島組)は手当てするどころか一日十二時間の重労働を課し、終戦までの四カ月足らずに五十人が死亡しました。そして五十四年たった昨年夏、候潤五さんら三人の被害者が日本政府と鹿島組に対し謝罪と賠償を求め前橋地方裁判所に提訴を決意していることを知りました。地元にこの事件を徹底的に調査している「トンネルの会」という組織がありますが、ここの石塚久則さんは昨年訪中、候潤五さんに面接、聞き取りをおこなってきました。中国でゲリラ活動中、日本軍に包囲され、木の檻(おり)に入れられてあり、天井から吊るされたり、木曽谷ではセメント袋をかぶり、足に枯れ草を巻きつけて寒さをしのぎ、薮塚では週に一度は二十四時間労働、盲人はトロッコ押しに使われたそうです。今、群馬では日中友好協会群馬県連(「支える会」に団体加盟)をはじめ「支える会」群馬支部が総力をあげてこの訴訟の支援準備をしています。
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1999年12月10日
群馬の近況(1999/12/10)
 点在していた県内会員五十五名でもって支部を結成したのが昨年七月二十六日。支部ニュース「すおぺい群馬」を本部「すおぺい」に合わせて隔月発行してきました。年を越してから七三一・南京・無差別爆撃事件訴訟の署名にとりくみ、半年かかって千六百六十四名の署名を集めました。この間、三月二十七日に弁護団より穂積剛弁護士による学習会を伊勢崎市で開催。七月三十一日には「支える会」の呼びかけで七三一部隊の原告敬蘭芝さんの「証言を聞く会」群馬県実行委員会を結成し、九月十九日の証言集会には百五十名の入場者でもって敬蘭芝一行を迎えることができました。カンパは二十三万四千五百円に達し、十月二十五日には「証言を聞く会」実行委員会でもって広田繁雄弁護士を講師に九・二二判決の学習会をしました。この間、八月二十二日に支部第二回総会をひらきましたが、会員総数は六十六名。新入会員十四名、他県への転出者二名、死去一名で差し引き十一名の増となりましたが、その後の証言集会で五名が入会し、現在は総数七十一名、昨年より十六名増えました。支部役員は規約により立候補制、本年は広田弁護士も加わり、強力な執行部ができました。
 群馬には二カ所、中国人強制連行事件の跡地があり、このうち月夜野事件では李万忠さんら原告が東京地裁に訴訟中ですが、さらに一名、同事件被害者の遺族呉旻(ごみん)さんによる、来年前橋地裁訴訟支援という大きな課題を支部はかかえています。
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1999年10月10日
敬蘭芝さんの証言集会(1999/10/10)
 「敬蘭芝さんたちがみえていますよ」
 えっ、もういらっしゃったのか、と一階の喫茶部に降りていくと一行は昼食を終え、休んでいるところでした。敬蘭芝さんは長椅子に横になり、付き添いの二人の娘さん、通訳の大前美輪子さんに見守られながら静かに眼を閉じていました。
 九月十七日、空路新潟に着き、休む間もなく同地の証言集会に出席し、翌十八日には東京の判決直前集会に、そして今日十九日には伊勢崎。体力の限りを尽してこられたのでしょう。今回は、医者である長女の郭娜莉さんも付き添ってこられました。
 「大丈夫ですか」そっと問いますと、敬蘭芝さんは静にうなずき、微笑みました。
 ここ証言集会の会場は伊勢崎市ふくしプラザの総木造多目的ホール。階段座席がボタンひとつで自動設営されます。開会午後二時。参加者百五十一名。
 最初、森田太三弁護士が七三一部隊事件の概要とこの裁判の意義と展望について話をしました。わかりやすいお話で、次の敬蘭芝さんの証言をより鮮烈なものとしました。ステージでは、教育委員会の初級科長である二女の郭曼麗さんが母の介添えをしました。敬蘭芝さんの話は、五十七年前の中国東北部の抗日運動を目のあたりに再現させました。日本軍の徹底した支配のなかで抵抗運動に加わり、夫、父、自身と逮捕され、夫は七三一部隊に移送、父は拷問のため死亡という、敬一家の話を蘭芝さんは絶句しながら語り続けました。自身が見、聞き、体験した限られたものです。しかし、そのなかから私たちはあの中国侵略の実態を肌身に感じることができたような気がします。歴史の生き証人、まさに敬蘭芝さんはその人でした。
 最後に郭曼麗さんが立ちました。「歴史を直視してください。歴史を変えることはできません。ほんとうの世界平和をつくりたいから謝罪と賠償を求めているのです。昨夜、東京の集会が終わったあと区民センターから新宿駅まで参加者がデモ行進をしました。感動いたしました」。
 九月二十二日、判決が出ました。被害を認め、国は謝罪せよとしながら、賠償請求は棄却しました。翌朝、群馬の地方紙上毛新聞は社説で「戦争犠牲者に補償することは国家の責務である。こうした事態を解決することこそ<戦後政治の総決算>だろう。過去に目をつぶらず、道義的な対応をすることが国の品位を保つことにつながる」と論評しました。
 さあ、これからが始まりです。支援の輪をひろく、力強くひろげましょう。
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1999年08月25日
支える会群馬県支部が結成 役員には立候補が続出(1998/8/25)
 「では支部規約が決定しましたので役員の選出に入ります。まず立候補募ります。委員若干名ですが、どなたか」「はい、私が立候補します。」女性出席者が挙手したのを始めにたちまち六名。支部代表は森村正美さんが推薦され、事務局長は「ぜひ私にやらせてもらいたい」と山田和夫さんが積極立候補、十一名の役員が選出され、中国人戦争被害者の要求を支える会群馬県支部は七月二十六日に伊勢崎市文化会館で結成されました。
 今まで群馬には五十五名の会員が点在していました。その多くは、去年三月やはり伊勢崎市でひらかれた平頂山事件原告「莫徳勝の証言を聞く会」と今年五月三十一日の「李万忠さんの証言を聞く会」で全国規模の支援組織があることを知り、入会した人たちです。群馬には強制連行強制労働の地が二カ所あります。そのひとつ、月夜野の発電水路掘りと地下工場のためのトンネル掘りの苦役を強いられた李万忠さんは今、日本政府と企業間組に対し、七人の仲間とともに謝罪と賠償を要求し、裁判を起こしています。そんなこともあり、今回の支部結成を契機に群馬の運動は一段と盛り上がっていくでしょ。
 当日の出席者は十四名。最年少は今年高校を卒業した宮崎尚子さん。最年長は日中友好協会群馬県連会長の星野益美さん八十歳。
 老いも若きも頑張ります。
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1999年08月10日
敬蘭芝さんの証言集会実行委員会が発足(1999/8/10)
 七三一部隊事件の犠牲者の遺族、かつ原告である敬蘭芝さんが九月二十二日の判決のために九月十七日に来日しますが、十九日に群馬の「証言を聞く会」に出席することになりました。七月三十一日にその実行委員会が発足し、活動を開始しました。会場は伊勢崎市福祉会館。午後二時からです。関東では東京をのぞく唯一の「証言を聞く会」ですので、近県の会員の方もぜひ、ご参加を。
公正判決要請署名は八月五日現在で千六百三十九筆となりました。JR東日本労組、民医連傘下の病院労組、渋川平和委員会、高教組、堺町教組、全群教伊勢崎支部、日中友好協会県連などの取り組みと個人会員の奮闘によるものですが、県全体を考えれば、決して十分とは言えません。この裁判は中国人原告にとっては日本政府に謝罪と補償をもとめる闘いですが、私たち日本人にとっては、単にそれを支援するだけではなくて、みずからの手で日本の戦争責任を明らかにする闘いでもあるのですから。中国人原告は十五年戦争で被害をうけた幾百万の中国人の代表であると同時に私たちの代表でもあるのです。群馬は強制連行・強制労働事件が二カ所あった県です。この事件の被害者の遺族呉旻(ごみん)さんから「この春、石原慎太郎氏が東京都知事に当選したことを知り、中国人は驚き、また危惧しています」という手紙がきました。石原氏は中国を常にシナと呼称し、台湾海峡で戦火が起これば自衛隊は当然、出動し中共と戦うべしと公言(昨年十二月TV「朝までテレビ・ノーと言える日本」)してはばかりません。「支える会」の仕事はますます重要になってきました。
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1999年06月21日
署名の取り組み(1999/6/21)
 「今、近くまで来たのですが、どうしても家がわからないのです」
隣町の境町職員労働組合の女性書記さんからの電話でした。私の居住地は現在、区画整理をやっており、たくさんの区画道路が縦横に走り、初めての人が我が家を見つけることはきわめて困難なのです。
 十日前、この組合に「署名」の依頼に行ったとき、その書記さんが「私は伊勢崎に住んでいますので、署名ができあがったらお宅まで持っていきます」と言ってくださったのです。彼女の現在地を聞き、自転車に乗ってとんでいき、百二十三名分の署名を受けとりました。
 今「支える会」群馬支部であつかっている署名数はやっと七百を越したところです。ものすごく遅れています。今回の署名の全国目標十万を会員数で割ってみますと、群馬は最低千八百は分担せねばなりません。
 冒頭の職員労働組合のごとく「支える会」会員が行動すれば、かならずこの裁判の重要性を理解し、応じてくれる団体、個人が無数にいるはずです。先だって「慰安婦」事件の原告侯巧蓮さんが死去されました。無念であったろうと思います。高齢の原告がたくさんいるこの裁判は急がれます。そんなにゆっくりとはしていられないのです。あせってはいけないが、しかし急がれます。急ぐということは、たくさんの署名を集める、たくさんの会員を募るということがふくまれるはずです。会員といえば群馬でもこの署名期間中、五名の会員が増えました。
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