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事件の概要

強制連行訴訟

 日本政府は国内の労働力不足を補うために、企業の要請を受けて3,8935人の中国人を強制連行し、日本企業35社が経営する135の事業所で過酷な労働を強い、6830人が死亡しました。賃金の支払いもなく、まともな医療手当ても行われませんでした。こうした戦争被害の回復を求める訴訟が、全国で8件起こされています。その皮切りは劉連仁裁判でした。[原告・劉連仁さん(2000年9月死去。遺族が裁判を引き継ぐ)は北海道で強制労働させられ、これに耐えきれず脱走し、日本の敗戦を知らないまま13年間も山中で逃亡生活を送りました。]この他、企業の責任を問う集団訴訟や、炭坑や港などの労働現場があった全国各地で強制連行訴訟が、東京・長野・群馬・広島・京都・新潟・札幌・福岡などで次々と起こされています。

中国人強制連行藪塚・月夜野事件訴訟

月夜野事件とは

群馬県内では、強制労働の現場が3つあります。間組が請負った岩本発電所水路掘削工事、旧中島飛行機後閑地下工場建設工事、鹿島組(現・鹿島建設)が請け負った旧中島飛行機藪塚地下工場建設現場です。岩本、後閑は月夜野町地内のため、藪塚・月夜野事件訴訟という名称になっています。

 1944年4月30日、5月8日の両日にわたり合計606名の中国人が利根郡月夜野町に連行されました。(到着前に6名死亡)。そして、間組が日本発送電から請け負った岩本水力発電所水路掘削工事のために使役されました。この工事は1942年秋に建設準備に取りかかり、43年7月1日に着工、発電量1万5千キロワット、20キロメートルにもおよび、水路はすべて地下式のトンネルです。そのため赤谷川に水道橋をかけたり、いくつもの山をくりぬき、現在ではとても採算のあわない難工事でした。中国人は30〜50人を一組として、「中国人隊長ー中隊長ー通訳ー班長ー一般労働者」というふうに組織され、中国人を通じて中国人を支配するという仕組のもと、最初は土砂を運ぶトロッコ押し、やがては坑内の掘り進めなどの労働を強制されました。中国人は、すきまだらけのバラックの飯場に詰め込まれ、ござの上でごろ寝、のどを通らぬようなマントウ(豆の粉でつくったもの)を1食に3個、風呂もなく、冬でも暖房なし、便所は一つしかなく二人が尻を合わせて用を足すといったむごい状況でした。同工事は翌45年2月頃完成しましたが、このために中国人死者43名、同負傷者246名を出しています。
 当時月夜野町の如意寺の住職は、故郷から遠く離れて死んでいった中国人を哀れに思い、死ねば中国人も日本人もないと、戒名をつけて手厚く葬りました。また、1970年は、建設委員会により当寺に「中国人殉難者慰霊の碑」が建てられ、私たちに強制連行の汚点をいつまでも語りかけています。

 さらに、生き残った中国人労働者563名は、3月1日に、月夜野町後閑の間組請負の中島飛行機地下工場建設工事(尾島の中島飛行機製作所を空襲の被害から守るため急遽移築するためのもの)に回されます。。ここでも死者10名(8月15日の敗戦直後に死んだ2名を含む)、負傷者83名を出しています。ここでは水戸の海兵団3031施設隊(三上部隊)の600名ももかり出され、部隊の持ってきた機械を使い、昼夜兼行で間組と競い合って、あっという間に10、000平方メートルにわたる地下工場を完成させました。

藪塚事件とは

 長野県御岳発電所建設工事に従事していた中国人276名は、1945年4月下旬、鹿島組が請け負う中島飛行機薮塚地下工場建設工事現場に連行されました。このとき中国人労働者は、御嶽出張所での過酷な労働のため、ほとんどの者が労働に耐えない状況であった。
 鹿島組社史によれば、「延長400m、幅4m、高さ4mの素堀りのトンネルを18m間隔で36本掘り、飛行機を組み立てる場所は高さ10mに達する厖大なものであった」。二交代制・10時間労働で、仕事内容は主として隧道掘削や隋道内でのトロッコ押し(排土運搬)で、労働条件は月夜野とおなじく極めて劣悪なものでした。ここでも死者50名、負傷者24名という多くの犠牲者がでています。
1972年に日中友好協会群馬県連が「トンネルの由来」の立て札を設置、また77年には長岡寺に慰霊碑を建立しました。また、県連は毎年春は長岡寺、秋は如意寺での墓参を欠かさずおこなっています。
中国人強制連行月夜野・薮塚事件 現場調査





現場検証に参加の張福珍さん。2006年11月
                        8/29不当判決抗議集会      
 
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